西荻塾の川上です。
「中学生からよく受ける質問」というのがあります。
その背景には色々な考えや感情があっての質問かもしれませんが、基本的に誠実に答えるようにしています。
頻出の問いから記事にしてみようと思いますので、西荻塾ではこんな話題を中学生と講師が交わしているんだなと思っていただければ幸いです。
なお保護者の方からの質問については、こちらの「よくある質問(塾全体)」もしくは「よくある質問(中高一貫校中学生)」をご参照ください。
「才能」が全てで、「努力」は関係ないのか?
生徒がどのような学習状況であれ、基本的に「努力の大切さ」を推します。
特に偽善的な意図はなく、単に「才能だから仕方ないね」というオチを強調することに何の教育的意義もないと思うからです。
一般的に「努力」とは、ある目標の実現に向けて心と身体を尽くして行動することを指します。そして「努力の型」は空手や柔道の型と同じく、何度も修正と反復を重ねることで身につき、鍛えられていきます。
したがって「努力する」とは単に英単語帳を10周するとか、100マス計算を毎日するとかいうような単発的・具体的な行動で表されるに留まらない、「生きる知恵」に類する高次の行動様式であると川上は考えています(何かややこしいですね、すみません)。
つまり「努力」とは汎用性が高く、是非習得したい後天的スキルなのです。
しかしそれでもなお、その努力の先にある「成績」や「合格」については、個々人に明らかな差が生じることを考えると、やはり「勉強の才能」の存在を認めざるを得ないことは多々あります。
以降は「勉強の才能」についての川上個人の考えを綴っていきますが、やはり繊細な話題になりますので、その辺りをご斟酌いただいた上でご覧いただければと思います。
また中学・高校生からこの手の質問を受けた場合には、相手の発達段階や性格、現在の学習状況や質問の裏に潜む気持ちに十分配慮して返答しております。時には「1日2時間以上は勉強してから言いなさい!(※中学生の平均勉強時間は90分)」で一蹴することもあります。
ただし基本的には「確かに勉強における才能の存在は認めるが、その個々人において努力は有益かつ必要である」と偉人のごとく(!)答えることにしています。
タブー視されてきた「勉強の才能」
才能を「本人の先天的な資質に由来するもの」と定義するのであれば勉強についても遺伝的要因は大きい(50~70%)との見方が最近の主流のようです。特に「算数・数学」と「国語(読解力)」はスポーツ並みに遺伝との関連が深いようです。
ひと昔前はその話題に触れること自体がタブー視されていましたが、最近は本やネット記事、動画サイトでも「学力は遺伝的影響が大きい」と見聞きすることが増えたように思います。
さらに「努力」に関連する遺伝子もあるとの由、少年漫画によく登場する「努力の天才」は文字通り「天賦の才能」として描かれる日が来るかもしれません。
大谷選手のような超有名人の名前を挙げるまでもなく、「足の速いアイツには頑張っても勝てない」のようにスポーツや芸術の世界を才能で語ることは古今東西、日常的なものでしょう。
もし10代の川上が、いかに陸上競技の超一流コーチから最新鋭の設備環境で指導を受けたとしても、100m走で11秒を切ることは絶対にできなかったでしょう。丸くなった今は15秒でも無理そうな気がします。
※ちなみに中学3年生男子の100m走の平均タイムは「14.44秒」、日本記録は「10.54秒」だそうです。
では勉強を生業とする塾の先生よろしく、受験勉強なら無双できるのか?
チャレンジせずに語るのは一層情けないのですが、川上が3年間勉強に打ち込んで東京大学理科三類(東大医学部)に合格できるかといえば、まず無理でしょう。国語や英語は大人になった現在の方がやや有利な教科なので、それなりの立ち回り方もありますが、肝心の数学と理科が。
まったく余談となりますが、経産省データによると日本に学習塾・予備校関係者は39万8千人ほどいるようです。果たしてその中で東大理三を受験して合格できる塾の先生は何人いるんだろう…?
そうでなくても灘や桜蔭の高校1年生(2年生や3年生じゃないですよ)に模試で全科目負けたなんて、普通にありそうです(笑)もちろん我々の仕事はプレイヤーではなく、名監督(コーチ)になることですが…
そう考えると教育評論家の佐藤ママ氏のご子息3人とご息女1人の全員が東大理三合格!はすさまじいですね。
もちろんご家族と本人の多大な努力はあると思いますが「いやそれにしても遺伝子の発現が…」と、ひがまずにはいられません。「川上の努力が足りないんだ!」と詰められたらきっと泣いてしまうと思います。
塾講師が感じる、勉強が得意な子の特徴
教育関係の方でなくとも授業参観等で、そのクラスの中で「一番勉強ができる」お子さんがどの子なのか、何となく分かった経験はありませんか?
そしてその直感はほとんどの場合正解です。
なぜなら「勉強ができる生徒」というのは「勉強に最適化した動き」をしていることが多いからです。
塾講師目線で以下に「勉強が得意な子(得意になりそうな子)」の所作の例を挙げてみます。
- 授業中の指示(「ノートを出しなさい」「テキストの○ページを開きなさい」)への反応が早い。授業の流れから先読みして動いている可能性もあり。
- 解説はもちろん、雑談に対しても食いつきがいい。講師は閑話休題にも知的なテーマ(内容が難しいという意味ではない)を選ぶことが多いので、知的好奇心とアンテナの感度が分かる。
- 設問にはにしつこく粘り、ぎりぎりまでヒントを拒否し、問いに答えられないときの悔しそうな表情が豊かで魅力的。
- 大人(講師)に対して過剰な依存も拒否もなく、相手と自分の立場に適した距離感覚と言葉遣いでコミュニケーションができる。
- 授業後に「残心」がある。恐らく学習テーマと自身の理解について反芻していると思われる。
※残心とは「その技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態(Wikipedia引用)」のこと。チャイムと同時に教科書を即閉じる子と対比してます。
上記に共通することは、「勉強ができる子」は物事に対峙したときのエネルギー総量が高い、ということです。表面的な活発さや大人しさは関係がありません。学習への熱量は声の大きさなどより、目線や手の動きに表れるものだからです。勉強が苦手な子のすぐにスタミナ切れしやすい様子とは対照的です。
「天才」はいる、君はどう生きるか
勉強向きの遺伝的才能(記憶力、分析力、ひらめき力)がある。
努力による達成を好ましく感じる先天的気質がある。
勉強を促進する環境(家庭の価値観や学費の捻出、地理的な条件などを含む)に恵まれている。
上記は自分自身ではコントロールが難しい一方で、確かに勉強において重要なファクターとなります。しかし、これらが全部そろえば難関大合格確実かと言えば、そうとも言えないところが受験の面白さでもあり、また怖さでもあります。その日その時に合格できるかは、もっと多様で複合的な要因の結果であるからです。
また自分が勉強に向いているかどうかは、長い時間をかけてある程度努力をしてみないと分からないことも多いのです。精神的に成熟した大人になって初めて「自分は案外数学の勉強が得意(好き)なのかもしれない」と気づくことさえあります。
学校の教員や塾講師であれば、その時点における生徒の学習能力(ポテンシャル)がある程度見えているはずですが、生徒の多くはポテンシャルが「10」あるとして、「6」か「7」の出力に留まっていることがほとんどです。
つまりできることを全て全力でやり尽くして試験当日を迎えることのできる生徒は、ほとんどいないということです。天才も同様です(努力の天才除く)。ここに努力して挑戦することの意義と、戦略と計画性をもって「才能」に打ち勝つ余地や揺らぎが生まれるように思います。
中高生の勉強の良いところは、学ぶべきカリキュラムが明示されており、その枠を極端に逸脱するような試験はまれであることです。また高校生になると自分で選択できる教科・科目もありますので、どうしても才能の壁に阻まれる分野は置いておき、自分が得意になれる分野に時間とエネルギーを集中することも可能です。
大きな夢や希望があるわけでもない、突出した才能もない、「持たざる人」にこそ勉強はお勧めです。
勉強はノーリスクでかつ、やり方によっては安上がりです。西高校や国立高校、早慶大や東大に合格できる可能性も、スポーツや芸術分野における活躍の可能性ほど極端に低くはありません。そしてその他にも魅力的な高校や大学はたくさん存在しており、そのどれについても誰もが挑戦する権利があります。
繰り返しますが「天才」はいます。むしろ世のため、人のためになる「天才」はいなければいけません。川上のような凡人ばかりでは、”iPhone”も使えなかったでしょう。
天才の存在は素直に認めればよいでしょう。
それとは全く別に「自分自身はどう生きるのか」「どう勉強と向き合っていくのか」という選択を、自らの旨として引き受けていくことが大切です。そうする内に「平凡であること」は実はそれほど残念なことでも、辛いことでもないことに気づけるように思います。