大学受験

受験勉強なんて役に立つのか?

2018年度入試に寄せて「受験勉強なんて役に立つのか」

文責:高校部総括 赤星
※この記事は、2005年、大卒当時、受け持ちの生徒に向けて送った餞言葉です。
そして2013年に西荻塾を設立したときにリビルドをしたものを18年度入試終わりに改訂したものです。

「受験勉強なんて役に立つんですか?」

 毎年のように何人もの生徒達から発せられる問いです。もっと根源的な問いとして「学校でやる勉強ってやる意味あるんですか?生きていく上でなんにも役に立たないんじゃないですか?」というのもよくあります。特に高校数学の授業はそういう問いに直面することが多いです。寂しいですが。
 たとえば「数学なんてやる意味あるんですか?文系なのに。」この質問に文科省的に答えるとすれば,「数学を通して論理的思考力を修得する」ということになります。この答えについて,議論をふっかけることはしません。まさにおっしゃるその通りです。
 しかし,実際に sinθやlogxを目の前にして苦戦する子どもたちに,それでは漠然としていて効力を持ちません。毎回そういう質問を受けるたび正直苦労してきました。学生当時,大学受験指導を始めたころは,結局,「受験に受かっていい大学に行きたいのならあきらめて。どうせやる,もとい,やらされるのならば最大限の効果が得られた方がいいでしょう。」と逃げるような答え方をしてきました。効力?もちろん,塾は少なからず受験を意識した者の集団ですから,ないわけではないが。

 確かに,まだ受験が遠い生徒達からすれば学校の勉強は一つの「やらなければ仕方ない」ものであって,そのものが直接的に実際の生活に関わっているかというとその実感がもてない,というのは事実でしょう。私でもかつてそう感じたこともあります。文系なのに化学をやる,理系なのに古文をやる,のように「〜なのに,」という言い方がその象徴たる言い回しです。いかにも無駄といわんばかりに。それよりも,もっと実利的なものを学んだ方がいいのではないのか。

そもそも学ぶことの意義とは?

 では,なぜ全ての子どもたちが不快に感じる勉強を強制する世の中の仕組みが存在するのか。まずは,いささか遠回りではありますが,学びの意義について考えてみる必要がありそうです。
 生物学的な一つの通念として,「外界の変化に適応して変化できる個体は,そうでない個体よりも生き延びる確率が高い」というものがあります。生物が絶えず変化し,その細胞一つ一つが常に代謝し続けるのはこうした変化に対応する生存戦略上の必然です。この論理を学びに当てはめた考察があります。内田樹氏(仏文学者)はこう指摘します。

「子どもが学ぶべきことは『変化する仕方』です。学びのプロセスで開発すべき事は何よりもまず“外界”の変化に即応して自らを変えられる能力』です。」(内田樹『下流志向』講談社刊)

裸の人間など無力である

 外界の変化は往々にして残酷です。かつて全世界を牛耳ったハ虫類の巨大生物が一瞬にして絶滅したことはご存じでしょう。このような厳しい自然界で,生き物たちは生まれては絶滅し,その繰り返しのなかでときには一見非効率な,それこそ数から質へ,すなわち子孫の数を減らしかつ相手を探し求めるものすごく手間のかかる有性生殖を選んでさえもなお,外界の変化に対応してきました。ここに「非効率こそ最適である」という生命の逆説性をまざまざと見せつけられます。
 そして,自らの体温を代謝によって一定に保ち多少の気候変動にも耐えられる動物たちが登場し,我々の祖先となっていきます。今や全生物の頂点に立つヒトでさえ(そうでない,という批判はさておきます),決して順風満帆ではなかったはずです。
 ヒトは,裸のままでは極めて無力な存在です。空も飛べなければ,足も遅い。重い頭を抱えて二本足でわざわざ歩く。肌は下界の気温変化に容赦なく痛めつけられる。それでも,なお,このヒトという生物が生き延びてきた理由は一つ,環境の変化と伍していくために,ヒトは知能を用いて対応してきたということです。ヒトが究極的にこれまでの生物と違うところは,自らの弱点を知能をもって補い,そして,主体的に学びを習慣化させることができることです。ヒトは,この知能を駆使して自然界を学びつづけました。その結果は,直接的に実利に結びつきヒトは爆発的にその数を増やしていきました。

学ぶことが生き延びる術

 そうしたなかで,すでに古代ギリシアや古代インド・中国をはじめ,原始社会をいち早く脱した社会は,すでに紀元前から,一見すると直接的に実利に結びつかないような学びをも習慣化させていた。哲学や数学,近代というシロモノが殺したという「神学」,それこそ,「意味がなく」,その日を暮らすことに精一杯だった庶民達の目に触れることがなかったもの。
 しかし,こうした「無駄な」こと,すぐに「役に立たないもの」は,それこそ知的遊戯で終わったといえるか。先に述べたとおり,進化の過程は,目の前の実利によってのみ達成されるものではない。xを限りなく0に近づける,という一見すると謎の試行(数学III:関数の極限)は,それこそ微分積分学の基礎となる考え方であり,それが物理学・工学を飛躍的に進歩させ,現代文明の糧となりました。xを限りなく今度は∞に近づける「無駄な作業」は,金融市場分析を劇的に変え,その結果として資金調達手段の幅を広げ,社会に深く深く貢献してきました。
 要するに,学びの本質は,生物が進化の過程でそれこそ学んできた逆説に根ざすものというべきです。こうした学びの試行は積み重なってときには横断縦断を繰り広げ,そして洗煉し体系化するでしょう。もちろん,体系化の過程で取捨選択も行われ,大半のものは捨象されることになるかもしれない。しかし,それは体系の洗煉化のプロセスであって,無駄なものではない(うまそうなものだけのつまみ食いでは,ほんとうにおいしいものはわからないのです)。こうして,体系化された学問は,大いに我々の文明形成に貢献し,ヒトから「人」へと進化を遂げてきました。
 人は,こうした事実を経験則として黎明期から気づいていたのでしょうか。だから,どんな時代であっても,どんな人間であっても辛いよりも楽な方がいいに決まっていますが,そこをあえて辛い学びを積み重ねてきたのか。それとも,逆説性をもって外界の変化に適応するという生物本来の本能がそう突き動かしてきたのか。いずれにせよ,学びこそ,人が人たるゆえんである,というべきでしょう。

受験で試されるのは何か

 このような意味で学びの意義を措定したとき,「受験で試したいのは何か。」という問いに一つの結論を導くことができます。それは,学びのプロセス,センスやヒラメキだとかではない,まさにそこまでの過程を一つ一つ積み重ねてきたかどうかを試したいのではないか。いわば,「学ぶ力」を試す。
 学びのプロセスを大事に積み重ねてきた者は,積み重ねてきた学びのフレームワークを通して今後も学びのプロセスを継続していきます。常に訪れる社会情勢の変化や,嗜好の変化などさまざまな変化に晒されるなかで,いかにビジネスを成功させるか,どのような政策を用いて社会厚生を改善するか,こうした崇高な目的に果敢にチャレンジする人は不断に学び続けています。何も勉強やビジネスに限ったことではない。農業,職人の方々に至るまで,誇りを持ち胸を張って生きている人々は普段の学びを,不断に継続している。学びを継続する人,こうした人材を輩出するために,人は学校を作り学ばせるのではないか。どうやって学ぶか,をまず学んで欲しいから。西欧諸国に比べ明らかに出遅れていた19世紀に,日本がいち早く先進国への仲間入りを果たしたその背景に,江戸時代から大事にしてきた寺子屋教育,素早い国民皆学への対応があったことを忘れてはならないでしょう。
 よく日本の受験制度は,欧米諸国と比較して,「入るのが難しく,出るのが簡単」,というような批判を受けますが,日本の受験制度が学びのプロセスを試験しているのならばそれはとくに問題ではないでしょう。欧米諸国は学業成績(内申点)の算出方法が日本と比べて明確に体系化されており,それによってプロセスの積み重ねを見ているだけで,日本では内申点の算出にいささか主観的要素(学校の先生の好き嫌いや試験問題のばらつきなど)が強く,学校によってまちまちだったりしますから,そんな不確定な情報に頼るより,広範囲で難しい入試を課してみるのは効果的な手段といえるでしょう。

 

受験勉強の意義とは

 つまらなく思える内容で,量も膨大で辛い受験勉強ですが,一つ一つ真剣に対峙して乗り越えていくそのプロセスは,将来研究職に就こうが,ビジネスの世界に身を置こうが必ず糧になります。社会に出れば,常に不確実性に晒されます。生物の進化の過程と同様,その不確実性は往々にして残酷な変化をもたらします。仕事が出来るということは,その都度その都度の変化に敏感に適応することが出来るということです。理科に社会に,古文に数学に,分野も多岐にわたり,その都度脳のさまざまな部分をフル稼働させる学習のカリキュラムは秀逸だと,私は思うのです(さらに,蛇足かもしれませんが,高校で学ぶ科目は,現代文明の基礎に他ならないと,たとえつまみ食いだと批判を受けたとしてもそう思うのですが)。
 「受験勉強」に無駄はない。「受験勉強」としてステレオタイプ的に別物扱いすることがそもそも妥当ではなく,最高学府で学びを継続せんとする者を「学びのプロセス(受験勉強)」の結果により選抜することは当然の事理である。受験勉強はすなわち錬磨であると考えることはできないでしょうか。

以上,長文の私見で恐縮ではありましたが,結語させたいと思います。受験勉強は,人間成長の確かな糧となる
「やってみなはれ」(サントリー創業者 鳥井信治郎)

(あとがき)
もっとも,現在の受験システムには確かに,硬直性がある。泥臭さが抜けてなおのこと,金太郎飴的な受験戦術が確かに通用してしまうことがままある(むろん,金太郎飴的な受験戦術のみで難関大学の入試が乗り切れるほど,甘くないことは今も昔もかわっていません)。そして,語弊を恐れずにいえば,私たち塾講師の使命は,受験で合格するためにはどうすべきかを徹底して追及し,それを生徒達に伝えること。それが我々の存在価値の100%であり,他に何もない。しかし,しかしながら,私たちは,たくさんの生徒たちの努力の軌跡を見つめてきました。確かな学びの足音を,確かに,聞いてきました。結局はきれいごととの誹りは免れないと思いますが,私たちが塾講師を一生の仕事とした決意と受け止めていただき,叱咤激励をいただければと思います。

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